天願大介のなまずブログ

2016年8月28日

沖縄が明らかにしてくれたこと

名古屋は暑かった。
比喩的な意味でなく本当に暑い。湿度が高く風が吹かない。地獄のような街だ。なのに地獄の住人たちは夏祭りやパレードで楽しそうに動き回っている。恐ろしい。
『燃えよドラゴン』となまず映画のトークのハシゴをして、夜、井村さんの知り合いの演劇人たちと飲んだ。井村さんの同級生の免疫関係の会社の偉い人がいて『赤の女王』を褒めていただいた。その後、民謡を聴きながら舞台美術家と天狗の話をした。
名古屋は深夜になっても風がなかった。暑い夏のリベンジはひとまず果たした、ということにしておこう。その晩、利便児という洒落を思いついたが、どうかな。風雲児快男児利便児。謎の快男児・李ベンジー。駄目か。

地球の反対側でオリンビックが終わった。日本がメダルをいっぱい取ったというので、TVもラジオもネットもはしゃいでいる。スポーツは芸能の一種だと芸能愛好家の俺は考えているので、それなりに面白いものをいくつか見せてもらった。しかし東京でオリンピックをされたら大迷惑だ。得をするのは関連業界とその甘い汁にたかる連中だけで、ほとんどの都民にいいことは一つもない。しかもこのまま行けば、オリンピック終了と同時に大増税と大不景気が襲ってくるのは明らかだ。
このオリンビックの最中にもいろんなことが起こっている。

このところ沖縄のニュースを読んで腹が立って仕方ない。腹が立ち、胸が痛む。
日本人は今沖縄で起こっていることの意味をわかっているのだろうか。いくら沖縄の連中が我慢強いといったって限度がある。選挙で意思表示をしても無視、暴力で無理矢理従わせる、こんな露骨な差別を続け追い詰めてどうする? その後何が起こるかわからないのか。いや、わかっていてやっているのか。だったら誰が責任を取るのだ。
これは日米安保の問題ではなく日本の国内問題だ。沖縄に基地を集結させているのは日本国の意志で日米地位協定を結んでいるのも日本政府だ。その政府は我々国民が選んだのだ。基地を動かせないのは新しい原発が作れないから古い原発を再稼働させるのと同じ構造で、道理を無視したやりたい放題が今も続いている。だが福島を棄て、沖縄を棄て、一体何を守るつもりだ?

「日本」なんて大きなものは、要するに概念にすぎない。
いろな地域が集まって日本になる。沖縄では桜は年末から一月に咲く。北海道の北では五月半ばだ。春の桜のイメージは京都の桜のことで日本のごく一部にすぎない。作家の島尾敏雄は日本列島を「ヤポネシア」と呼び、千島から南西諸島に弧状に続く島々の集合体だと言った。
沖縄に住んだ最初の元旦を思い出す。あまりの暑さに俺は裸になって扇風機に当たっていた(クーラーがなかった)。日本は京都だけではない。北海道や東北、九州や沖縄があり、天皇制も含め多様な文化と歴史を持つ東アジアの弧状列島、それが日本だ。
だから一つのイメージでまとめようするのは無理があるし正しくない。
何でも言うことをきくやつばかりのチームは弱い。簡単に言うことをきかないやつ同士がコミュニケーションを取る努力をすることで、チームは強くなる。オリンピックで日本は団体競技に強いという幻想がまた出てきたけど、あれは個性が強いやつらが努力して喧嘩して協力したから強いのであって、空気を読む奴が何人集まっても世界では勝てない。

大阪の芸人はそれぞれ腕がありいくらでもデタラメができるのに、集まると空気を読み合い、先輩後輩という観客にとっては無意味な区別を声高に言って、それに外れた者を馬鹿にして笑う。見ていて息苦しくなる。本気のぶつかり合いではなく、君臨する者への馴れ合いのヨイショで、あの手のバラエティを見て、子供たちは空気を読むことを自然に学習するのだろうか。ちなみに「その間じゃない」「オチは何」「あ、噛んだ」「いいパスが足下に来たのに」「これ言っちゃヤバイ?」「放送できない」「そこはもう一つボケるところだろ」などと素人が言うのはもう完全に異常だ。
日本の芸能人は社会的発言をしないことで有名だが、大人の芸能人が意見を言わないのは異常なことで、それを当然だと思っている観客やファンも、言わせないマスコミや芸能事務所も異常だ。政治や社会問題に、語っていい人といけない人がいるということが異常だ。芸能人はいつまでも子供でにこにこしていなくてはならず、大人として振る舞うと仕事がなくなるなんて、どう考えても異常だ。
沖縄出身の芸能人がこの問題について語らないことを責めるつもりはない。複雑な背景があることはよくわかる。だけど言いたいやつはいるだろう。我慢できずに言ったら徹底的に叩かれることがわかっているから言えない。そんな国でほんとにいいのか。
日本を褒める意見しか許さないなんて野暮の骨頂、江戸では手前のことを褒める馬鹿のことを野暮と呼んで軽蔑した。明治になって田舎者が君臨してから、江戸の美学は通用しなくなった。どこ出身かということではない。洒落のわからねえやつを田舎者という。野暮を重ねて手前が偉いとうぬぼれ、分をわきまえぬ振る舞いのあげく田舎者国家は戦争に惨敗し国土が分断されたのだ。もう忘れたのか。
戦争中、小沢昭一は軍隊の便所で密かに落語を口ずさみ、崩壊しそうな精神を何とか保ったという。落語レジスタンスである(今の落語家にこの意味がわかるやつが何人いることか)。水木しげる先生は南方戦線で、片腕を失っても現地の人々と交流して殴られ、それでもスケッチを残した。戦争こそ野暮の骨頂、映画も演劇も落語もお色気も恋愛もユーモアも洒落も、人生のすべてを踏みつぶす。

いつの時代も、力を誇示したがる野暮天を支えるのは「空気を読む」腰巾着どもだ。腰巾着どもが太鼓を叩き、国民は檻の中の嘘の自由を自由だと思い、異物を排除して嘘の幻想に逃げ込む。かくしてこの国はまた滅びの坂を転がり落ちていくのである。坂の下に蜘蛛というのはどうだろう。

画:猿松細人

俺は多様な文化を持つ「日本」を愛し誇りに思っている。メダルの数はどうでもいい。それより空気を読めないやつ、言うことをきかないやつ、異質なやつが大活躍できる国にしなければ未来はない。何度も書いてきたが、多様性こそが滅亡を回避する戦略だからである。
福島を棄て、沖縄を棄て、一体何を守るつもりだ。守るべき「日本」とは誰がイメージする日本だ。いつからイメージを共有しないやつを殴っていいことになった。殴り蹴り、それでも愛せと脅迫する暴力野郎が、愛をわかっていると思うか。それを見て育つ子供が世界で勝てると思うか。汚染水はどうなってる、廃炉は、廃棄物処理はどうするつもりだ。誰かさんの美しい日本のイメージに入っていないものだって、現実としてまだそこにあるじゃないか。
どうか沖縄に注目して欲しい。
見ることしかできなくても、見ないふりをするより一億倍よい。

 ――ニュースを見ていたら、橋本とかいう団長が東京オリンピックでは倍のメダルを取りたいなどとぬかしておる。客を招いて威張りたいとはどういう神経してるのか。おもてなしとか言ってたのはどこのどいつだ。わが文化の特性であり美徳といわれていた羞恥心は一体どこに行ってしまったのだろう……キリがないのでやめるが、こういった話も、俺の中では、なまず映画を旗揚げしたことと無関係ではない。

『からゆきさん』より

なまず映画の次の上映は9月17日の目白庭園・赤鳥庵(トークもあります)。
この日は今村昌平のドキュメンタリー『からゆきさん』『ブブアンの海賊』も上映する。『からゆきさん』は親父が棄民シリーズと名付けたドキュメンタリー群の代表作で、東南アジアに売られた娼婦を追った作品。これは傑作です。
『ブブアンの海賊』はユーモアを交えて差別の構造を描く文化人類学風ドキュメンタリーで、デタラメなところを含めてこれも面白い。
夏の終わりにぜひご覧下さい。