天願大介のなまずブログ

2016年8月2日

寛容ということ


8月6日目黒のお寺・高福院での上映会が迫ってきた。『魔王』『赤の女王』両作品を上映しますので、この夏の思い出にぜひ。
8月20日には名古屋の劇団pH-7地下劇場で上映、井村昴さんも来て俺のトークもあります。9月17日の目白庭園・赤鳥庵の上映はなまず映画とともに今村昌平のドキュメンタリー『からゆきさん』『ブブアンの海賊』の上映も行います。珍しい作品なのでこの機会にぜひ。俺のトークもあります。

施設に侵入して障害者を多数殺す事件が起きた。19人も殺したというのは戦後最多だろう。
犯人の男は、元職員で、障害者が存在することが周りを不幸にする、などと書き残していたという。動機のくだらなさも、行動の卑劣さももあまりにひどいもので、言葉もない。

犯人の書いていた、障害者の周囲が不幸になるというのは、現代日本の福祉制度の問題だ。新自由主義的価値感で、金のかかる福祉は切り捨ていいという風潮が、政府マスコミのプロパガンダによって広がったことと無関係ではないだろう。福祉なんて最初から効率が悪いに決まっている。
この目で、障害者が周りを幸福にしているケースを見てきた。わざわざ書くのも馬鹿ばかしい、当たり前のことだ。それは人間だから不幸にすることも、なることもあるだろう。だが周りを不幸にすることにかけては、健常者のほうがよっぽど上に決まっているじゃないか。
古臭いと言われるかもしれないが、抵抗できない相手を殴ったり虐待したり、絶対に勝てる相手だけ殺すなんて、男のやることではない。俺たちは映画でそれを学んだ。あいつはスタローンやイーストウッドの映画を観たことないのか。勝新太郎の座頭市やブルース・リーを知らないのか。どんな映画を観たら、あんなことができるんだ?

しかし、合理的とか効率とか、そういうのはもともと日本的でない考え方だ。俺の理解では、近代以前の我々の文化は、原理主義的な純粋さとは相容れず、残忍で攻撃的であると同時に、ルーズでいい加減だった。
日本人は伝統的に神でも仏でも鰯の頭でも適当に拝み、人前で平気で裸になって男女混浴で浮気や同性愛も当たり前、勤勉なのに金が入ればパッと使って一文なしになるし、下克上といって主君とその一族郎党皆殺しにしたりしてきたじゃないか。
美しい国とか何とか言ってる連中も、それに対抗している連中も、それぞれ都合の悪いことは言わないけど、歴史というものはその時代を生きていた人間の生々しい記録で、だから矛盾だらけで、猥雑で複雑で、誰かの気分一つ、何かのきっかけ一つで大きく変化する。そこに合理的な理由があるとは思えないことばかりだ。

俺は落語を愛好する。
立川談志は「落語は人間の業の肯定だ」と定義した。立派に討ち入りした赤穂浪士を褒めたたえるのではなく(講談や時代劇はそっち)、トンズラした駄目な奴を描くのが落語だ、と。偉そうな奴や威張る奴は野暮だと軽蔑し、欲望剥きだしで生きるゴミのような人間たちを魅力的に描く。それが落語の美学だ。
今村昌平は『豚と軍艦』の脚本を書いている頃、師匠である小津安二郎監督と脚本の野田高梧に「汝ら何を好んでウジ虫ばかり描く?」と嘲笑された。そのとき親父は「俺は死ぬまでウジ虫ばかり描いてやる」と心に誓ったという(この話は親父から直接聞いたこともある)。親父もまた落語愛好家であった。
ルーズで乱暴で不純でいい加減で、一神教じゃないからどこか寛容で、そこが日本のいいところだと俺は誇りに思っている。だから俺の作る映画の主人公は「寛容」でなければならないし、それを失ったら人間でないものになってしまうのだ。
今回の、卑劣の権化のような犯罪を心底悲しく思う。どう考えていけばいいのかわからないが、これだけは言える。「純粋」などこの世に存在しない。宗教テロも人種差別も根は同じだ。誰だって気に入らない奴はいるだろう。でもそいつが生きていることぐらい許してやれよ。

『AIKI』で描いたことは「触れなければ技はかからない」。人を殺せる距離はキスができる距離だ。殺すよりキスしたほうがいい。それは『世界で一番美しい夜』で描いた。
多様性を失ったら生物は絶滅する。皆が同じ方向に進化したら何かの一撃で全滅してしまう。異質なものが存在することで、その種は生き残れる。純粋で均質なものは絶滅するしかない。
純粋な理想を語るやつ、他人の不純を責め立てるやつは、落語国では嘲笑される。自分がウジ虫だと思っていない頭の悪いウジ虫だからだ。

我々は積極的に異質であるべきだ。同時に多様でなければならない。いい加減でデタラメで、しぷとくタフでないといけない。
今の時代、合理的なことや、純粋なものの誘惑はますます強くなっていると感じる。それに負けないために、落語や映画や演劇や文学がある。もちろんなまず映画も。