天願大介のなまずブログ

2015年4月23日

ぬるぬるした境界線

最近考えていることだがドラマというものは境界線上にある。「ドラマティック」というのはつまり主人公が境界線に近づくことだ。
一番わかりやすいのは「死」で、死ぬか生きるかというのは、生と死の境界線に近づくこと。結婚の境界線なら「不倫」、セックスだと「近親相姦」や「同性愛」、ヤクザの裏切りやスパイだと「組織」「国家」の境界線だし、犯罪は「法」の境界線、もちろん「脱獄」や「密入国」なら境界線を越えること自体がモチーフになる。
主人公は何かの境界線に引き寄せられていく。それにつれてドラマは盛り上がる。
境界線上ぎりぎりで踏みとどまるのが昔の通俗娯楽の骨法だったけど、現代では突破して向こう側へダイブする作品も多くなった。しかしその向こうにもまた何かの境界線が必ずある。振り向けば乗り越えた境界線もまだ残っている。
境界線を越えてこちらにくるものもある。平穏な日常に突然現れた殺し屋、家庭的な男を誘惑する妻の妹、裏切りを強要する仲間。主人公は激しく揺さぶられ、価値感が崩れはじめ、否応なく境界線に引き寄せられていく。
死の境界線からくるものは、西洋ではゾンビだったりクトゥルー神話になり、日本だと溝口健二の『雨月物語』、タイだと『ブンミおじさんの森』になったりする。これに関しては西洋と日本・アジアでは表現が違う。西洋だとリアリズムではなくなるが、こちらではリアリズムの範疇なのである。

我々は死と生が地続きだという抜きがたい「感覚」を持っていると思う。日本ではその感覚がスタンダードだ。

映画『妹と油揚』より

例えば死んだおばあちゃんが夢枕に立ったと聞かされても、「そういうこともあるだろう」と思いませんか。本気で信じているわけではない。なのにそう思う。
死者が遊びに来るからお盆は会社を休んで故郷に戻るのだし、死者に祟られるのが怖いから墓参りをし(占い師は先祖の祟りだと脅す)、強い力を持つであろう死者は神社に祀る(戦死者は祀る必要がある。西洋的な意味での「慰霊」ではない。だから靖国問題が起こる)。
「死の世界を覗き見る」ことは芸能というものが生まれた最大の理由だ。代表的なものは「能」。歌舞伎や講釈には「怪談」というジャンルがあって稲川淳二まで続いている。近代に入って「映画」というものが現れた。
演劇を母、写真を父として生まれた映画は、見えないもの、この世ならぬものをより生々しく描くのに適していた。だから全世界で幽霊や死神が出る映画が作られる。
死の世界を覗きたい、この世ならぬものを見たいという願望は人間の普遍的な欲望だ。見世物であった映画は観客の求めるまま「見えないもの」を視覚化していき、CGの発達で、ついに映画は「見えないもの」を自由自在に描けるようになった。それは映画の死の始まりでもある。絵空事をリアルに見せることはただの技術にすぎない。なのにそれ自体が目的になってしまえば映画は死ぬしかない。
ともかく、生と死が地続きだというのは、生と死の境界線が曖昧だということだ。
日本は近代化を目指した。「近代化」とは曖昧さを否定し境界線をはっきりせることだった。線引きはしたものの西洋的厳密さに欠ける。誰もが都合のいいところだけは境界線を引き、都合が悪ければ曖昧にしてしまう。今に至るまでずっといい加減なのである。 そういう態度を全肯定するつもりはないが、自分のことを振り返って考えても、俺は好んで曖昧な境界線ばかり描いている。

DVD版『妹と油揚』は、なまず映画上映会場にて絶賛販売中です。

『妹と油揚』の異類婚に始まり(最後は妹が妖怪と結婚して新婚旅行へ行く)、国家民族の越境を描いた『アジアンビート』、肉体や感覚の障害(身体的自由と不自由の境界線)についての『無敵のハンディキャップ』『AIKI』『暗いところで待ち合わせ』、文明と原始の境界線を描いた停電映画『世界で一番美しい夜』、境界線の向こうに捨てられた老婆たちのその後を描いた『デンデラ』(禍々しいものを連れて戻る)。『魔王』は「境界線が溶ける(メルトダウン)」ということがテーマだったし、最新作『赤の女王』は境界線が溶け続け、すべてが曖昧になりはじめた世界を描いた。
西洋文明はルーズで曖昧だった世界のすべてを明快に分類・線引きすることで発達した。彼らは「過去」と「未来」も、「善」と「悪」も、「権利」と「義務」も明快に線引きしてみせる。もちろん「生」と「死」も「人間」と「動物」も。「どちらでもないもの」や境界線を越えるものは忌み嫌われ差別され排除された。魔女は動物と性交するし同性愛者は処刑された(日本は夥しい異類婚の伝説が残っていて、同性愛には大変寛容な国だった)。
最初の頃は主人公がラストで境界線を越えてどこかへ行くことが多かったけど、次第に曖昧な境界線を行き来するようになってきた。
厳格な砂漠の一神教(ユダヤ教キリスト教イスラム教)をベースにした文化は境界線も明確で、ドラマティックな映画が生まれやすい。
しかし東アジアの辺境の日本に住む我々は、そうはいかなかった。この国では境界線が溶ける時間を「たそがれ時」と呼んだ。「たそがれ」は毎日くるのである。
結論。我々は曖昧な境界線を逆手にとったドラマ、西洋とは異質なドラマで勝負すべきだと思う。曖昧でぬるぬるした境界線であっても境界線は境界線、我々のドラマティックはそこにしかない。ラース・フォン・トリアーのような映画は撮れない。
でも、ぬるぬるした境界線の面白さはまた格別なもので、文学で魔術的リアリズムが生まれたように、日本的曖昧さの中に面白い映画の可能性がある、と俺は考えてきた。
なまず映画はその実験、試行錯誤の集大成である。未体験の方はぜひ『魔王』『赤の女王』を併せてご覧いただきたい。上映もぬるぬると続いていますから。