天願大介のなまずブログ

2015年3月4日

演技とコントロール

ポール・ニューマンという俳優がいた。もちろん大スターである。晩年どういうわけかドレッシングの会社で儲けたそうだが、その話ではなく、彼は「メソッド」という演技法を学んでいた。メソッドはアメリカ映画のリアリズム演技の基本になった方法で、多くの俳優たちがこの訓練を受けてスターになった。ジェームズ・ディーンやマーロン・ブランド、アル・パチーノやデニーロ、ホフマンもメリル・ストリープもマリリン・モンローも、皆、これを学んだのである。
リー・ストラスバーグたちがアクターズ・スタジオで広めたメソッドは、元はソビエトのスタニスラフスキーという演出家が作った「システム」を改良したものだ(亡命したロシア人がアメリカに伝えた)。
アスリートと同じように、心(内面)と筋肉(外側)、その二つをコントロールできなければ一流の俳優ではない。だがこれは大変難しいことで、そのために古今東西様々な俳優の訓練法が生まれた。簡単にいうと、システムやメソッドは脚本を読み込んで役を掘り下げ、内面からその役になりきって感情を作っていくという方法だ。それまでの演劇が歌舞伎のように「型」を重視するのに対し、内面の重要性を強調したのである。
さて、ポール・ニューマンがアルフレッド・ヒッチコックの『引き裂かれたカーテン』に出演したときのことだ。ポール・ニューマンの演技にヒッチコックは大変不満だったという。

トリュフォーとヒッチコックの『映画術』にこうある。
「わたしの気にいらなかったのは、ポール・ニューマンの演技だ。きみも知ってのとおり、ポール・ニューマンはアクターズ・ステュディオ出身の俳優だ。何も表現していない、いわば中性のまなざしが、私には、シーンを編集するために絶対に必要だったが、ニューマンはそんな、何も表現しない中性のまなざしで見る演技をいやがった」
ある場面でニューマンは「単純に無意味に目をやることができず、アクターズ・ステュディオ方式で、例のごとく顔をちょっとそむけながら、思いいれたっぷりに演技してみせた」。
ヒッチコックは編集で手直ししたが、(他の理由もあって)シーン全体をカットしてしまったのだった。
これはヒッチコックが外側、つまり「型」を要求したのに、内面を重視するポール・ニューマンがそこに「理由」や「感情」を入れたがったために起こった摩擦だ。メソッドを学んだポール・ニューマンは演技に意味や理由が欲しい。しかし無声映画で「型」を徹底的に学んだヒッチコックは、そんなものの必要は認めない。なぜならば映画は外側しか映せないからだ。
舞台では幕が開いてから終幕まで、俳優は(基本的に)途切れないように感情を作っていかねばらない。しかし映画は細切れに撮影して編集で繋げるもので、例えばフルショットからアップになるだけで、俳優の気持ちがあろうがなかろうが観客はある印象を持つ。編集次第では演技の意味だってまったく変わってしまう(モンタージュ理論)。

これが「映画は監督のもの、舞台は俳優のもの」と言われる理由なのだ。監督は気に入らない演技を編集でカットできるし、場合によっては撮影しなければいい。俺はやったことはないが、撮影したふりをする監督までいた。一方舞台では俳優が演出家を無視して勝手に芝居しても誰にも止められない(「カット」の声はかけられない)。
話を戻すと、俳優は己の内面と外側をコントロールして演技するのが仕事だ。監督はそれも含めて映画のすべてをコントロールする仕事。ときに俳優の内面が邪魔になることもある。どちらが正しいという話ではない。ヒッチコックとポール・ニューマンの対立は監督と俳優の宿命的な対立でもあるのだった。

監督にとって、命令したことを完璧に繰り返せる俳優がいい俳優なのか。細かい表情、台詞の抑揚、呼吸の深浅、瞬きの回数……つきつめるとそれはロボットでいいということになる。近いのは北朝鮮のマスゲームだ。
当たり前だが、内面があるからこそ人間だ。どんなに訓練したって人間の精神は不安定で常に揺れ動く(精神だけでなく肉体も)。余計なもの、計算外の要素が入ってしまう。
それでいいのである。コントロールしようとしてしきれない部分こそが、魅力や味、個性となるからだ。いくらヒッチコックだってブロンドのロボットには欲望を感じなかっただろう。

例えば舞台では初日と二日目とはどうしたって違う。人間が演じてるんだから。かつて立川談志の落語に通ったときは、毎回その落差にめまいがした。だからこそ追いかける価値があると思った。人間は常に変化・成長(あるいは衰え・堕落)するもので、それを目撃することが生の芸事を見物する喜びなのだ。
もちろん演出家の立場だとそうも言っていられない。俺だって映画の現場では様々なことをコントロールしなければならないし、そのことに悪戦苦闘する。だけどいつも思うのだ。そもそもすべてを完璧にコントロールし、自分の思想や美意識、あるいは狙った効果を正確に伝えることは映画の目的なのか。いや、違う。そんなもの、映画のごく小さな一部だ。だって自分が完璧にコントロールできるものなんて、どう考えても狭くて小さくて退屈に決まっているじゃないか。突然降り始めた雨がカットに力を与えてくれることがある。俳優の思わぬ動きが奇跡的な化学変化を起こす瞬間がある。
いろんな理由で俺はヒッチコックの映画は全肯定できない(みんな褒めすぎだよ)。それはともかく、監督の個人的な表現を超えたとき、映画はちっぽけな自分を超え、未体験の美しさを見せてくれると俺は信じている。
だから全身全霊でコントロールする。コントロールからハミ出すものこそが一番欲しいものだからだ。簡単にコントロールできるものに誰が惚れるものか。