天願大介のなまずブログ

2014年7月27日

映画監督について(概論)

今回は自分のことは棚に上げて書くしかない。

たまに「監督って何をするんですか」とか「どうすれば監督になれるんですか」と聞かれることがある。映画監督というのは説明しにくい仕事だ。

舞台の場合も「演出」をする人間がいて演出家と呼ばれる(舞台監督はまったく違う仕事で演出はしない)。その昔、演劇に演出家はいなかった。俳優がいればよかったのだ。劇作家や演出家が偉そうにしているのはごく最近のことなのである。
映画も同じで、最初から監督が今のような仕事をしていたわけではない。初期の映画はカメラマンがいて被写体があれば映画は撮れた。作るものが複雑になっていくのに合わせて分業が進んだわけだ。
で、映画監督だが、同じ「演出」する仕事でも舞台の演出家とはかなり違う。
映画監督は少なくとも現場で三つの演出を同時にしなければいけない。だから映画監督になるのは難しいのです。


第一は俳優の演出。これが出来なければ話にならない。いわゆる「芝居をつける」というやつだ。脚本を読み込んで俳優にイメージを伝え、ああだこうだと要求し、演技を引き出していく。
そのために言葉を使うが、ただ意味を伝えればいいというものではない。伝えるときの表情、声の大きさやトーン、距離やタイミング、状況、あらゆることが関係する。何よりも俳優の芝居を見る目が必要になる。俳優のどんな微細な反応も見逃してはいけない。複数の俳優が出演する場面でも、とにかく全員を見る。ちゃんと見ていることが俳優の信頼を得る絶対条件だ。
俳優は繊細な生きもので、その魅力を引き出すためには様々な演出術が必要になる。男優、女優、子役、ベテラン、新人、素人、外国人、相手によって手を使い分けなければならない。監督たるもの、いろんな手を隠し持っている。

第二はカメラを使った演出。これが舞台の演出家にはない技術で、カメラのことももちろん、編集がわかっていないと絶望的だ。撮影中、監督の頭の中には完成した映画のイメージがなければならない。
映画には「ただの偶然」で撮れるものなんか一つもない。どんなに自然に見えても、それは「自然に見えるように」計算して撮っている。すべてのカットは綿密に準備しリハーサルし照明を当てないと撮れない。しかも脚本の順番ではなく、撮影しやすいようにすべてをバラバラにして撮っていくので、最終工程まで計算できない監督だと、現場はひどいことになる。


第三はスタッフ全体の演出。時に百人を軽く超えるスタッフ・キャストを束ね、スケジュールと予算を睨んで現場を前進させていく。指揮者というか現場監督というか。これもやり方はいろいろだ。
監督というのは、実は何も出来ない人間なのだ。現場にはいろんなプロが集まっているのに、監督だけは演技も撮影も録音も何も出来ない。なのに御輿に乗って団扇を振り、それ右へ行け、今度は左だ、とわめいている。担いでいる人たちはこの御輿がどこへ行くのか監督を信じ、その指示に従って突き進む。比喩ではなく監督に命を預けているのだ。もちろんプロデューサーも責任を持つけれど、映画の中身についての全責任は監督にある。

現場で必要な三つの演出の他にも、映画が完成するまで監督は様々な演出を駆使する。多くの歴戦のプロたちを束ね、怪物のような俳優たちと信頼関係を築き、言葉、色、光、音、音楽、文字、映画を構成するすべてを総合的に演出して、映画を完成させる。それが映画監督の仕事だ。
どうすれば監督になれるのかは俺にもよくわからない。監督になるための決まったルートなんてない。俺のように独学で勝手にやっていて、何となく映画監督になったケースもある。ちなみに助監督というのは監督とはまったく違う仕事で、ほぼ日本だけのガラパゴス的制度だが、それをやっていれば監督になれるかというと、そんな保証はない。なれるヤツはなれるし、なれないヤツもいる。
しかし、監督の資質というのは何となくあると思う。
まず監督は作品に対する欲望が強くなければならない。欲望は強けれは強いほどよろしい。すぐ諦める奴が撮った映画なんて誰も見たくないでしょう? その証拠に、映画監督の伝説のほとんどは「諦めが悪い」ことに関係しているではないか。


監督は作品の中身の全責任を持つ存在だと書いた。OKもNGも監督が決める。監督は作品のためなら平気な顔で冷酷な判断をしなければならない。なのでスタッフに囲まれていても孤独である。つまり、孤独に耐えられない者は監督失格だ。
そして監督はタフでなければならない。危機的状況に陥ったスタッフが狼狽えて小便漏らしていても、何事もなかったようにかなり面白い冗談を言ったりしないといけない。顔面蒼白のスタッフの前でにこやかに一発大逆転のアイディアを出してみせる。これが監督をやっていて一番楽しい。もちろん失敗したときに誤魔化すのも腕のうちだ。
映画というジャンルにおいては、どんなに作家性が強くとも監督はリアリストでなければならない。すべてを計算して撮る映画の現場は経済的物理的時間的限界がある。どこを妥協してどこを粘るべきか。現実を処理する能力が低ければスタッフの信頼を失う。映画のスタッフはすべてリアリストで、判断は速いほうが尊敬される。
しかし、どんな巨匠でも、神ならぬ人間に現場のすべてをコントロールすることは不可能なのだ。雨も雪も波も風もある。最近は雷やゲリラ豪雨や竜巻もある。気温や湿度だって関係するし、事故や停電やテロやクーデターだってあるだろう。それらと闘い全能力を振り絞って努力した結果、最後の最後は運を天に任せるしかない。そのためだろうか、映画の現場では奇跡(信じられない偶然)がしばしば起こる。もちろんそれは監督の力ではない。奇跡だからね。


だから監督はいくつもの演出術を持ち、タフでリアリストで諦めが悪くて孤独で、最終的に謙虚でなければならないのである(狂っていて変態であることが世界標準だ)。
しかし――すべてをクリアして映画監督になったとしても何の保証もない。特に日本では経済的幸福はほとんど望めない。純粋に映画監督の仕事だけで食えている人はほんの一握りで、しかもその人たちも来年どうなるかわからない。特にモテるわけでもないし、世間で尊敬されるわけでもない。収入も評価も年によって乱高下する。
いいところといえば、他では味わえないような面白い経験ができることかな(面白いと思えるかどうかはその人のキャパシティによるけど)。
映画の現場というのは外から眺めれば荒々しくて非常識で、映画でしか生きられない連中が走り回っている異常な世界だろう。そういえば今村昌平監督は晩年、色紙を頼まれると「狂気の旅に出た」と書いていた。映画は狂気の旅。俺の言葉だと、映画は「どれだけ頭がおかしいかを競うチキンレース」だ。
狂人集団の先頭を、極彩色の旗を振り立てて疾走する一際狂った人物。しかし彼の頭の中では冷酷な計算と欲望が渦を巻き、通俗と芸術と金勘定がゴッタ煮になっている。「カット!」とか「OK!」とか叫び、怪しげな術を使って人心を惑わし、神と対話し悪魔と取引し死者を蘇らせ、遠く離れた国に住む見知らぬ誰かの人生を狂わせる。それが映画監督というものです。
果たしてこんなものを仕事と呼べるのだろうか。だから俺は「趣味です」と答えることにしている。