天願大介のなまずブログ

2014年7月19日

『魔王』解説対談 天願大介×田辺秋守(3)於 2014年6月29日 ザムザ阿佐ヶ谷

田辺秋守 Tanabe Shuji
日本映画大学准教授。専門は現代哲学・現代思想・映画論。著書に「ビフォア・セオリー 現代思想の〈争点〉」(慶應義塾大学出版会、2006)。『カンゾー先生』(今村昌平監督、1998)ドイツ語指導監修。週刊「図書新聞」映画評(「現代思想で読む映画」)連載中。

田辺ただ一方で、この映画は世界的な同時代性を持っていると感じます。それは悪の問題というんですか、悪の存在というものを、これだけ一貫して問うている、描いてるという点ですね。海外の作家はまさにそういうことを延々と描いているんで。先ほどの『悪の法則』というタイトルは原題ではありませんが、コーマック・マッカーシーの原作でコーエン兄弟が撮った『ノーカントリー』。例えば『ノーカントリー』と『魔王』は並べられる作品だと私は思います。
非常に特異なのは、ハビエル・バルデムが演じているアントン・シガーっていう殺人鬼です。彼の暴力、彼のある種の一貫性というのは、「狂った神」の一貫性のような気がするんです。例えばあるシーンでシガーはコイン・トスをやります。表が出たら生かす、裏が出たら殺す。コインが裏になるか表になるか偶然で、そういう意味で言うと神の意図とか配慮っていうのは基本的に偶然だということがわかります。先ほどの話ともつながるんだけれども、もともと正の秩序、正しい秩序があるというよりは、秩序はそれにとっての偶然性によって成り立っているということですね。アントン・シガーはそれを暴露するんだけれども、しかしシガーが突き抜けているのは、裏が出ようが表が出ようが殺すわけです。それってちょっと人間的な悪を超えているような気がするんですよ。するとそれは、今日の映画でも描かれてる、人間を超えた、あるいは自然を超えているような何かなのだと。だからフィルム・ノワールがオカルト的なものを持ち出したり、あるいは超自然的な要素を使って悪を描くのは頷けるところがあります。


で、魔王は私の観るところ、アントン・シガーほどの確信はないんですよね、実は。梅林もからかいながら、嘉子もからかいながら……つまり意味を見出そうという人間の悪い癖は、世界がもし無意味で出来ているとしたら無意味に意味を見出したくなるということです。しかし彼自身は決して無意味だと思ってるわけではなくて、どこかでこの風水の秩序を信じてるわけです。だけどそれが最後、彼の中で崩壊する。神すらもある意味で信じられない何かっていうものに辿り着くって言うか、ちょっとそんなことを感じたんですけど。

天願『ノーカントリー』は前提として神様がいる国の話ですね。でも日本は世界でも非常に珍しい、多神教で先進国になった国です。一つの絶対的価値観があって、責任を取るとか断罪するとか救済するという明確な意志があり、ルールがあって、という国では全然ない。もっとなんかこうグチャグチャしてる感じですよ。
今、田辺さんが仰ったように、現代の作家は悪の問題についてずっと考えています。それは日本の作家もそうだと思う。三池崇史なんか悪しか描かないですし(笑)。強い悪の誘惑のようなもの、あるいは悪によって運命が狂わされていくようなことに今日的なドラマがあると、現代の作家なら誰でも感じているはずです。もちろんオウム真理教みたいなのが出てきてから、日本ではより自覚的になったのかもしれませんが。
しかし『ノーカントリー』的なものやアメリカ・ヨーロッパ的な悪とはちょっと在り方が違うように僕は思うんです。それをそのまま日本に持ち込もうとしてもかなり無理がある。連続殺人鬼の映画なんかもありますけど、いないからね日本にそんな奴。いたとしても圧倒的に少ない。考えるべきは何故いないのかっていうことですよ。

僕の考える日本の悪の形というのは……例えば「無責任」とかね、「無自覚」とか「無知」とか、「無」がつく感じなんです。絶対的な強さを持っている神はそもそも存在しない。だから絶対的な悪も存在しない。自分はそうじゃないんだって言いながら悪いことをするみたいな、もうちょっと小さなものが幾つもあるっていうか、なんかそんな感じがしています。例えば今日いろいろ話してきた「無秩序」でさえも、この日本という国はそれを徹底的に考えることもせず、さらなる「無知」でそれを飲み込んで受け入れてしまう。何というか底なし沼みたいなところがあります。『魔王』のキーワードでもある「メルトダウン」という言葉のイメージから、そんなことも連想しました。
アメリカ的なもの、ハリウッド的なものを日本に持ち込むと成立しないのは恋愛映画に関してもそうですね。神様の前で永遠を誓うとか、家族だとか結婚だとかということに対する異常なまでのアメリカ的信仰は、日本にはそもそも存在していないのです。
映画には悪役もいればヒーローもいるんですけれど、日本的なヒーローってものを考えたときに、それは結局、悪が弱くて無責任なわけですから、ヒーローも結局なにも解決できないのではないでしょうか。絶対的な正義としてそこに君臨することができない。日本で悪の問題を僕なりに真剣に考えた結果、コーエン兄弟やリドリー・スコットとは違う形の映画になったということですね。


田辺当然この映画は連作になるはずです。この映画のシナリオ読んだとき、おそらく3作は撮るだろうと思いました(笑)。だから一本で論じるのではなくて揃った時にどうなるのかと期待が膨らむわけです。例えばデヴィッド・リンチの『ツインピークス』とか、ラース・フォン・トリアーの『キングダム』とか、そういうものに近くなるのかなと思ってるんですが。

天願東京の上映が今日でしばらく休みに入って、七月に大阪で二日上映し、その後次の作品の準備に入ろうと思っています。シナリオはもう書きました。これが恐ろしいことにですね、こういうものだったら幾らでも書けるんです(笑)。誰か止めてくれっていうぐらい、訳の分からないことをずーっと書いてるんですよ。連作というのはその通りで、次もまた同じような世界を描くわけですが、少し違う感じにしようと思っていまして……タイトルはパンフレットに『牛る馬猪ふ』これは「ゴルバチョフ」と読みます(笑)、これが大変評判が悪かったので、今は『赤の女王』という仮題を付けてあります。
「赤の女王」というのは、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』に出てくるチェスの赤の女王のことです。アリスが一所懸命追いかけるんだけど、いくら追いかけても女王はいつも同じ距離にいて、この世界は全力で走ってないと同じ距離をキープできないのよって言うんです。核兵器の開発をすると敵も開発するから、結局お互い優位に立てないまま同じ関係がずっと続いていく、「赤の女王」はそんなことの例えで欧米ではよく使われる言葉ですね。
でも中身とはあまり関係ないんです(笑)。えー、今度は牛が出てきます。生き物がいろいろ出る予定です(笑)。

……こういうこと始めてしまって、これは非常に大変なことでして、こうして皆さんに来て頂けると、本当に救われる気持ちで一杯です。どうしてみんなこういうことをしないのか、ということがよくわかりますね。どうしてしないのかについては、僕の中で明確に答えが出てますから(笑)。だけど、こういう変なものを観たがる人が少しはいる、ということもわかりました(笑)。ですので、この夏、次の作品を撮影するつもりです。
『魔王』は僕が作りたくて、いろんな人に迷惑かけながら作った映画です。自分ではとても満足しています。とにかく始めてしまったわけで、もうちょっとやってみなようかなと。やっていればひょっとすると面白いことになるような気も何となくしてますし。
世の中には顎のしっかりした客もいるんだってことを信じて、また映画を作っていきます。皆さんもこれに懲りずに、またチャンスがありましたら、是非なまず映画に来て頂きたいと思います。
本日はありがとうございました。