天願大介のなまずブログ

2014年7月16日

『魔王』解説対談 天願大介×田辺秋守(2)於 2014年6月29日 ザムザ阿佐ヶ谷

田辺秋守 Tanabe Shuji
日本映画大学准教授。専門は現代哲学・現代思想・映画論。著書に「ビフォア・セオリー 現代思想の〈争点〉」(慶應義塾大学出版会、2006)。『カンゾー先生』(今村昌平監督、1998)ドイツ語指導監修。週刊「図書新聞」映画評(「現代思想で読む映画」)連載中。

田辺秩序が崩壊するのではなく、もともと秩序というのはジョークのような、つまりもともと狂ってるっていう、そういうニュアンスは天願作品にはごくごく当たり前にあるものですね。でも今日は会場で私も一緒に映画を見たのですが、それなりに笑いが起こり、正しく観られていると感じました。この映画はやはりブラックコメディという感じに作られています。
ではもう一つ、この映画に近づく方途について考えてみますと、「フィルム・ノワール」いうジャンルがあります。この映画はフィルム・ノワールの設定とか世界観に近いと思うんです。厳密にハリウッドの伝統的なフィルム・ノワール、あるいは70年80年代以降繰り返し作られているネオ・ノワールとか、そういうものが持っているプロット、つまり探偵がいて運命の女ファム・ファタールが出てきて……というような設定ではないんですが。
月船さん演じる嘉子は徐々に探偵の役割を担っていきます。失踪した少女を誰が拉致したのか、少女たちは今どうしているのかということを探ろうとしていく。彼女のその根幹にあるのは極めてプリミティブなものです。秘密というものが好きだと、秘密を暴きたいというような欲望です。フィルム・ノワールの探偵というのは、外的な状況を探っていきますが、自分の内部の問題に辿り着いてしまう。外部の事件だと思っていたものが実は自分の内的なトラウマを探求するような所に辿り着く。嘉子はそういう探偵とはだいぶ違います。



田辺ただし、この映画が持ってる世界観、舞台設定にはかなりノワール的なものがあるように私は思いました。それはどういうことかと言うと、構造的に不均衡がある、それをあくまでも前提に--人々はそれを知らない訳ですが--、その上ですべてが動いてるっていう。今言った、外側を探していると自分の内側に辿り着いてしまうという、メビウスの帯みたいな感じです。表を歩いてると思ったら裏側に行ってるというような。で、それは例えば、生きてると思っている人たちがすぐ死んでしまう、そして死んでると見える人々が次のシーンでは生き返って出てきているというところにもあります。おそらくいちばん不均衡が、顕著に、皮肉に表れているのが、方位に関する専門家であり風水に関する専門家である魔王が、実は自分の足元の磁場が狂っているのに気づかず、最大に狂っているところに居座っているということです。それを月船さん演じる嘉子に指摘されて狼狽え、身悶えして倒れてしまう。で、このへんに似たものを感じるんです、フィルム・ノワールというジャンルの映画とね。
フィルム・ノワールの世界観というのは、簡単に言うと、我々の世界はいたるところに、見えないけれど落とし穴や罠があり、そこに一旦足を踏み入れると抜けられない。ズルズルとそこに足を引きこまれてしまって、負の連鎖がドミノ倒しのように起こる。そんな世界観なんですね。
たまたま先週か先々週か、電話で天願監督とちょっと話してたのですが、コーマック・マッカーシーというアメリカの作家がいますね。彼のオリジナル脚本でリドリー・スコット監督が撮った『悪の法則』という映画があって、これは私が言った訳じゃないですよ、天願監督が「『魔王』と少し似てる」と言ったわけです。『悪の法則』って映画はものの見事にフィルム・ノワールの傑作な訳ですが、それはそういうところかなあとちょっと思ったんですけど。

天願フィルム・ノワールの話をすると、何度聞いてもよく分からなくて、彼と全くコミニュケーションが取れないんですが(笑)、マッカーシーは好きな作家で、いつも、ちょっと似たようなこと考えてる人がいるんだと思うんです。表れた作品は全然違うんですけどね。
『悪の法則』はとても面白い映画で、いろんなことを思ったんですが、例えば出てくる人物たちとその置かれてる状況とが一種のディスコミニュケーションというか、ずれている感じがする。一見そうではないように見えながら、少しずつずれている感じ。田辺さんの言うように、その舞台背景だけでなく世界の構造自体が狂っているように見えてくる感じが少し似ていると思いました。
ズルズル引き込まれるというイメージは、『魔王』では特に梅林という、中村映里子さんがやってくれた役と魔王との対話で、相手が聞いてるか聞いてないか無視して喋り続けることと、それに対して抗おうとすればするほど術中に取り込まれていって、引きずり込まれていく感じ、それは意識して作りました。ついでに言うと、これはテクニカルな話になりますけど、『魔王』ではいろいろ対比的な構造を使っています。例えば歴史資料館の階段のところで、梅林みどりは「なんで私のとこに出てきたの」って言う。これは梅林の最大の疑問です。それに対して魔王はきちんと答えることなく、人間というものは常に自分が主役だと思いたいんですね、なんてからかって馬鹿にして、追い詰めていって鼻血を出させるわけです。


実はですね、鼻血がなかなか出なくて大変だったんですよ。鼻の構造があの人はちょっと特殊で(笑)、普通は上向いて血を仕込んで下向くと自然に鼻血が流れるんですけど、出ないんです。どんどん溜まっていくんです(笑)。怖ろしいですよね、外から見てるときれいな鼻してるのに中がそんなことになってるとは(笑)。
まあ、そうやって梅林は追い詰められ、鼻血出して倒れちゃいます。で、今度は魔王が切腹をする前に「最後に一言言わせてください、私がなぜここに現れたか」って言うんです。これは「なんで私のとこに現れたの」の対比です。それに対して嘉子は「聞きたくない」って言うんですね。つまり魔王が術にはめようとして、言葉の色々な罠をかけてくることに対して嘉子は動物的な直感で「無理」とか「聞きたくない」とか、バッサリ切り捨てる。世界をコントロールしたように振る舞っていた魔王が、ここもコミニュケーションはとれてないんだけれども、嘉子にリードされるという形になっていくわけです。
田辺さんの言うように不均衡な世界を描こうっていうのはその通りなんだけど、作品としての整合性というか、作品の中での均衡は相当意識して書きました。それが不均衡を描く場合とても大切なことなんで、『悪の法則』も実に巧みにやっています。もちろん『魔王』ではさきほど説明した「大将軍」であるとか「天一」とか、その意味するものについて作品中全く触れていないので、わからないと思います。でもわからなくても、それはいいのではないかと。映画って、何かの答えを出すものではないと思うんですよ。映画は、正解を指し示したり、世の中をある方向に向かって動かすことを目的に作るものではなくて、何かの提案をするというか……そのときに自分のその時の感情みたいなものは正直に乗っけていかないと駄目ですが。それを観た人が自由に解釈し、自分なりの結論を出してくれればいいんです。わかんない映画を作った言い訳をしてるんじゃないんですけど(笑)、全部わかんなくてもいいですよね。
なのに、なんでみんなあんなにわかる映画ばっかり作るんでしょう(笑)。もうやめてくれって耳を塞いでる手を無理矢理開けて、実はこうこうこうですよって説明するような映画ばっかりで、嫌になりませんか? だから全然知らない国の映画とか、映像文法がメチャクチャな映画を観たときに、すごく嬉しい、これが映画だなって思ったりします。僕が映画を観始めてた頃って、田辺さんとは同世代なんで彼も一緒だと思いますけれど、映画見てわからないことは当たり前でした。それで打ちのめされて家に帰って勉強する訳じゃないですか、悔しいから。わからなくても観る、それを続けているとわかるようになってくるわけです。所詮は映画なのでそれほど難しくはないんですよ。わかるようになったとき、自分の世界がぐんと広がっていくような気がした。それが背伸びして映画観ることだったと思うんです。

これはブログにも書きましたけども、年々世の中が甘口になりすぎちゃって、みんな虫歯だらけになってるっていうか……甘いもん食い過ぎちゃって顎の力も弱ってね、歯も弱くなっちゃって、スルメとか噛んだら歯が折れちゃうんじゃないかってぐらいになっている。せめて少し噛みごたえのある映画を作って、よく噛み締めないとわからないのもいいんじゃないか。まあ、噛んだところでそれが美味しいかどうかってのは、また別の話ですけど。少なくともお粥みたいなものじゃなくて、ちょっと噛みごたえのあるものにしようという意識はありました。ここに来た人たちはきっと噛むのが好きでしょうから(笑)、映画を見ていろいろ考えてくれると期待するわけです。

田辺例えばアレですよね、金庫の中の白く蠢くあの生物はいったい何だ、と。皆さんおわかりになります? 私はわかりません。例えばヒッチコックはストーリーを展開させるためにだけに存在するある種のXのことを「マクガフィン」と呼びました。ついつい私はマクガフィンだよなって思っちゃったりするんだけども、でもそうじゃない、とも思うんですよ。おそらく観客の一人一人が全然別のことを考え、自分の欲望を、あの白い蠢く生物に仮託すると言うか、読み込むって言うかね。そういうことが正しいように思います。だから何でもいいんじゃないでしょうか(笑)。