天願大介のなまずブログ

2014年6月19日

『魔王』解説対談 天願大介×土田環(後編)於 2014年5月26日 川崎アートセンター

土田環 Tsuchida Tamaki
日本映画大学准教授。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。ローザンヌ大学(スイス政府給費留学生)、パリ第8大学(フランス政府給費留学生)、ローマ第3大学(イタリア政府給費留学生)へ留学。立教大学ほか非常勤講師。専門は映画史・映画美学。学生時代より内外の映画祭や企画上映、撮影現場に携わる。編著書に『ペドロ・コスタ 世界へのまなざし』(2005)、『嘘の色、本当の色―脚本家荒井晴彦の仕事』(2012)、『こども映画教室のすすめ』(2014)など。

土田お話を聞いて、やっぱり天願さんは非常に上品だと思いました。すごい繊細というか微妙なところを映画にするんだな、と。磁場が狂っちゃったんだよカオスだよ、っていうふうな設定とか演出って逆に簡単だと思うんですよ。でも私達はそんな全部否定して生きていけないし、フィクションだと分かっていても、そういう日常を生きなければいけない。その微妙なところですね。
「方違え」というのは中心があれば簡単なわけですが、魔王の場合は自分でも動いちゃって、その都度動いたところで磁石を見ているので、どんどんどんどんズレていかざるをえないんですよね。常に中心がズレているというか。少しづつのズレが引き起こしているような悲劇。
あるいは月船さんの演じている嘉子が魔王と対峙するときというのは常に正対視することを微妙に避けているような気がしました。真正面で向き合わない。魔王自体はわりとシンメトリーに撮っていると思ったんですが、月船さんは逆にポジションのとりかたというのが常にズレているような所にいる。それは意識したんですか?

天願うーん、『暗いところで待ち合わせ』という映画を撮った時は、人物と人物の関係を意識的に斜めにしてみました。『魔王』では斜めというより、上下ですね。上と下。階段の芝居もそうですし、魔王が床を這いまわると嘉子が上から見降ろすとか。それは少し意識しました。でも、これはお金がなくて撮った映画なので、撮影ではむしろ映画の基本を意識しました。基本だけで撮ってみようと。だからカットバックがほとんどなんです、この映画は。これだけカットバックの多い映画を撮ったは初めてですね。

土田それはストレートにカットバックをしたいっていうことですか?

天願これは対話劇でして、台詞を聞かせたいっていうことと、相互の表情見せたいっていう……アクションとリアクションの関係が、予算もないもんですから、物や動きですべて表現するのはなかなか難しくて、だからお芝居と言葉だけで闘ってみよう。だとすれば最良の方法はカットバックだろうと。ご覧になっているお客さんには関係のない話ですが。


天願この映画を撮るとき、いくつか自分で考えたことがあります。その一つが初心に戻って映画を作ってみようということ。それから映画館でかけない映画を作ろう、映画の観せ方も含めて実験をしてみようと。つまり僕的には原点に戻るということなんです。先ほど申し上げたように、みんな信じてることって本当にそうなの? って意地悪に疑ってみる。そのことで成立しなくなることが山のようにあって、日本はそれを真面目にやり始めると何もかも成立しなくなるような段階に来てますけども、同じように映画というものも、何でそうなんだろう? って思うと変なことがいっぱいあるんですね。そんなことを考えずニコニコやっていくのが、まあ大人というものなんですが、大人でない上に馬鹿ですから、どうしてもふざけたくて我慢できなくなっちゃうんです。だから撮るときもそうでしたが、こうやってみんなに観てもらうのが大変楽しくてしょうがない、私は(笑)。

土田もうひとつ思ったことなんですけれど、魔王は自分で方位磁石を持ってる割には迷っちゃう。で、嘉子という女性ですね、魔王を倒すという意味では女神のような存在なのかもしれませんが、彼女は外と中の出入りをわりに自由にできます。その対比があって、あの河原の部分がこの映画でひとつのリズムを作っている。あそこがある種の三途の川というか、あの世とこの世の境界になっているというふうに観ました。つまり魔王にこの人達、支配されてるというか、まあ、食べられちゃってるんじゃないの? とか、死んじゃってるんじゃないの? っていう、そういう人達はあそこに行く。本当に人間として死んでるのはトイレで死んでるりりィさんだけで、その他の人達は、もともと死んでるけど出てきてるような気もするし、まあ、そこが分からないところが面白いというか。で、そういう人たちはあの河原に行けるんだなって。

天願仰るようにある種の三途の川的な、そういうものですね、あそこは。その先は分かんないけど、そこの手前まで引き寄せられて、あっち渡ったらもう帰ってこれないみたいな場所、つまり境界線です。メルトダウンっていうのは溶けて落ちるっていうことですが、僕には境界線が溶けてしまうというイメージでした。溶けるとは何か、境界線が溶けていくとはどういうことかずっと考えていると、生と死っていうものの、生きてることと死ぬっていうことの境界線もまた溶けるのではないかと思ったんです。じゃあ、もう一回出てきてもいいかなって(笑)。
これはブログにも書きましたが、方角について調べてみると、古代中国の占星術、天文学からきているんです。方位を司る神様がそこにいる。この神様はどこから来たかっていうと、これは星なんです。星が神として地上に降りてくる。しかし星はグルグル回っているわけですね、地上に降りてきても。しかも回る星はひとつではない。幾つもの星が地上に降りてきて、それぞれ違うサイクルでグルグル回っている。だから方角の組み合わせは非常に複雑になっていくわけです。その神々、星々を擬人化して、物語を作っていったんです。
例えば魔王は「大将軍」っていう、すごい悪い事する星、これは3年に一度づつ12年間かけてグルグル回っています。「天一」という星があって、もう少し速いサイクルで回っている。だから嘉子の昔の芸名は「虹山天一」です。そういう薄い引っ掛けみたいなのはいろいろありまして、だからあの死んだり生きたりしてる人達も、神様に近いような存在ですね。
我々は実は地球に住んでいるんですが、それを普段は意識してないじゃないですか。でも太陽と地球の距離も、月と地球の距離も、少しずつ変化しているわけですよ。我々が生きてる大前提自体が変化しているわけで、何が起こるか分かんないんです、誰にも。長い時間をかけて変化しているから、盤石で微動だにしないと思いがちだけど、実は最初から不安定なものの上にいる。この映画は全体にそういうことをすごく意識して、すべてが不安定なのだと思いながら撮ったんです。すべては溶けていく。生と死も。

土田それぞれが星が擬人化された登場人物だとすれば、それぞれに回っている速度とか移動していく尺度が当然違うわけですから、出会ったり交差したりすれ違ったりするところが、だんだんズレていく。そのすごく細やかな部分っていうのが凄いなというか、非常に興味深かったです。ところで天願さんは舞台の中でよく人形を出すと聞いていて、この映画でも人形が出てきていますよね。あの人形が月船さんの顔に似てて。



天願そうかなあ。

土田似てるって思いませんでした? 最初男なのか女なのかもちょっとよく分かんなかったんですけど、後半、あからさまに胸があるんで、あ、女性なんだ、と。これは嘉子だと思ったんですけど、まあ、ただ思ったんですけども(笑)。

天願人形が好きなんです。人形というのは撮り方によって面白いし、いろんな解釈ができて感情移入し易い。魔王の存在自体が謎で、魔力も含めて直接、具体的なことをあんまり観せられないので、周りに嫌な感じがする物とかシンボルみたいな物を置きたかったんです。でも物じゃつまんないんで人形を置いてみたんですが。
予算がないということは出来ることに限りがあるということです。その条件の中で効果的に作るにはどうするか。それが例えば人形であったり、カラオケであったり、切腹であったりするわけです。でも、それでも作りたいし、作れるんです。
この映画を撮ったのは、止むに止まれぬ気持ちが僕にあったからです。映画というのはもっと豊かでもっといろんな可能性があるもので、こういう映画もまた、存在する意味がある。同じ時代を生きている監督たちは、それぞれのアプローチで作品を作ればいい。みんなが現実から目を逸らさずに映画を作るべきだと思います。そうすればこんなひどい状況でも、映画は豊かなものになるだろうと。
えー、そろそろ時間だそうです。どうか、道歩いてたら車にぶつかっちゃったと思ってですね、皆さん、こういうものに引き寄せられた自分の運命を呪ってください(笑)。こういう映画体験がまた、次の映画、他の映画を観るときに活きてくると思います。

最後に土田さん、何か一言。

土田綺麗にまとめるつもりはないので……最後に一つだけどうしてもお聞きしたくて。『魔王』の予告編で「映画は死んだ」って言ってますよね。今も止むに止まれぬ気持ちだったって仰ってて、状況もそうだし中身に関してもそうだと思います。でも僕はこれを観ていて、天願さんは原点って仰ってたけど、みんなが面白いと思って映画を作っていることを、ものすごく感じました。いいなあと思いつつ、ただ一映画ファンとして『暗いところで待ち合わせ』も『AIKI』も、自分が大学生で映画に惹き寄せられていく過程で観て、ものすごく惹かれたものだったから、今後どうするのかなっていうことだけ聞きたいんですけど。

天願僕が子供の頃から観たり、憧れてきた映画というものは、もうすでに形が変わってしまいました。僕は映画は死んだと思っています。その話は長くなるんで止めておきましょう。もちろんプロとして映画を作る努力は今後も続けていきます。でも取り敢えず次はまた「なまず映画」の新作を撮ります(笑)。「なまず映画」は、僕の逃げ道としての第二の選択ではなく、第一の選択に対する、再びそこに攻撃を仕掛けるための手段でもあるということなんですが、まあ、詳しくはブログなどを読んでいただければ。

それでは皆さん、土田環さんに拍手を! 本日はどうもありがとうございました。