天願大介のなまずブログ

2014年5月16日

親父の原稿

前にも書いたけど、なまず映画を立ち上げる前、俺は二年ほど悩んでいた。で、愚かな選択に踏み切って昨年末『魔王』を撮ったわけだが、直接間接のきっかけになったことがいくつかある。そのうちの一つは、40年前に親父が書いた文章だ。親父の蔵書を整理していてたまたま見つけた。
タイトルは「一寸ふりかえってみると」。『舞曲扇林』という、前進座の河原崎長十郎さんが個人的に出していたと思われる雑誌に寄稿したものだ(第三号で奥付は1970年10月20日発行とある)。親父はいろんな随想雑文をあちこち頼まれるまま書き散らしていて、これもその手のものだろうと読んでみたら、意外にも、悶々と悩んでいた俺にはかなり考えさせられるものであった。 少し長いが、せっかくなのでここに全文を採録しておく。

今回取り上げた原稿を書いた頃の今村昌平。

一寸ふり返ってみると

今村昌平

 私の助監督時代、撮影所では自社で作られた映画に対して"あの監督はうまい" "あのつなぎはあの人でなければ出来ない"とかいう技術論が専らで、少しは中味についての論議が闘わされると思っていた私には、これは意外なことであった。
 それは監督というものは職人であるから、悪い材料でも上手にコナす技巧を持つべきなのだという考え方なのだった。あんなに悪い脚本とロクでもない役者を与えられても腕のサエでここまで見せたと誇る言葉を、当時の監督自身から聞かされたこともある。
 戦後の食糧難が去り、朝鮮戦争で一儲けした日本国が安定ムードに浸りはじめた頃から、つまり映画界が全盛を極めたといわれるその頃から事態は変りはじめ、観客は少しずつ辛くなりはじめた。
 私が監督になったのは丁度その頃である。「豚と軍艦」迄、私の作る映画は、大船調といわれるものを多分に曳きずっていたと思う。ただ、通念的には価値あるものとされず、むしろ無価値な汚穢に満ちているとされるようなものを、より切実な現実として想起しようとする気概には満ちていた。
 だが所謂大船調の底に流れる甘い現実認識を基盤として立っているのでは、どんな部分的リアリティーを細密化しても所詮は切実な現実は表現され得なかった。バタ臭さやファンキーなタッチも"映画とは大体こんな風なもの"といううす甘い考えから出て来たものにすぎなかった。

1971年頃、タイでのスナップ。この頃の親父は東南アジアによく取材に行っていた。その成果は何本かのドキュメンタリーになり、『女衒』にも反映されている。

「昆虫記」から私は可成自覚的に、諸矛盾をムジュンとして包含したままフワリとした均衡を保ち、同時に、極めて閉鎖的な日本的世界を画きはじめた。日本的日常の底にかくされた真実をえぐり出す作業に、観客を批判者として参加させる事で、ドラマの力を倍増しようとした私は、考えられる限りの方法を投入してみた。曰くストップモーション、セット撮影の全廃、いわゆるつなぎを全て拒否したカッティング……しかし、それらは観客を批判者として立たせるよりは、むしろ生理的快感をくすぐる、いわば講釈の張り扇的効果を発揮してしまい、感情移入を分断する筈の効果としては、逆の目に出てしまったのである。
「昆虫記」の資料である売春斡旋業者の話の聞き書きを読みかえしてみたところ、シナリオより映画より、この方が倍も力があるのに気づいて私は唖然とした。嘘、偽りが多過ぎて昨日と今日の話が全く喰い違い、その為に半月もかかってとったダラダラした聞き書きなのである。
「人間蒸発」は、そこでカッとなった私が、"真実"を何の虚飾もなく、あるがままに非ドラマとして画こうと試みたものである。
 しかし、現実と非現実の間にある人間の真実をなんとか摘出しようと焦れば焦る程――つまり摘出の作業が"ドラマ"を画いてゆくことなので当たり前のことなのだが――私自身が、ドラマ的虚構の淵に沈みこんで行くのを如何ともし難く、金は無く、映画は果てもなく終わらず、何とかとりまとめてエンディングを出さなくてはと、死ぬ程バタついたのである。

『人間蒸発』の頃のスナップ。親父は「覗き」が好きな監督で、劇映画でも「覗く」場面が多い。映画には監督の好みが出てしまうのだ。
©今村プロダクション

 恥ずかしいことだがそこで気が付いた。どうしてエンディングらしいエンディングを探すのか。一つの作品を、完成された完璧な一つの世界として提示しなければならないと考えることそのものが、大船調美学の限定を今もって私が信奉していることの証左に他ならないのではないか。
 現代では空中楼閣のように打たてられようとする合理主義や、科学技術と資本の偏重の下に、根源的な精神の非合理性というものが、全くわけの分らぬ無価値なものとして無視されようとしている。更に錯綜し複雑化し、絶えず流動して止まることのない現実の矛盾の中に埋没した精神の非合理を取出して画くことが私の仕事であり、それが最も切実な現代の表情を画くことだと思う。
 それは極めて困難な作業であり、オイソレと、所謂ドラマ的エンディングをつけて、はい出来ましたと提示出来るような性質のものではない筈である。
「にっぽん戦後史」はそんなつもりで作ったドキュメンタリイであり、「神々の深き欲望」は以上のような事を考え作ったドラマである。
 だが諸矛盾はあまりに大きく、私の映画はあまりに小さい。殊に製作と興業に拘わる大矛盾が映画界には在って、それが私の行手にドシンと立塞がり、どうにもならぬ歯がゆさと怒りで私は憤死しそうになる。気長の粘り屋のように云われるのでそんな風にも思っていたが私は本当は気短かであるらしい。
 形式は問題ではないとすれば、スクリーンに頼らずとも私は私の主張を貫通出来る筈である。
 今、私は写真文庫の出版を目論んでいる。

(映画監督)

だからなまず映画を立ち上げたというわけでもないのだが、今の俺より少し若いときの親父が書いたこの文章は、俺の心にズシンと響いた。
内容を全面的に肯定納得したわけではない。甘い観客が辛くなったのに気づかなかったので、映画は観客に見放された、とあるが、それはちょっと観客を評価しすぎだろう。観客はもっと貪欲な存在で、つまり脳よりも胃袋が馬鹿でかい。だから「観客を批判者として参加させる」異化効果の試みも逆に呑み込まれ消費されてしまうのである。
しかしこの文章は撮影所的映画に対する否定であり、同時に大変わかりやすい自作分析でもある。ちなみにここでいう「ドラマ的虚構」については、俺は親父ほど嫌っていない。もちろん「ドラマ的虚構」を盲信するつもりはなく、そこから何とかはみ出そうと藻掻くことが「虚構」を支える唯一の方法だと考えている(リアリズムとはただの"リアル"ではない)。
「根源的な精神の非合理性」を描くことへの模索、「一つの作品を、完成された完璧な一つの世界として提示しなければならない」ことに対する拒絶などはまったく同感だ。親父とはただの親子であって師弟関係はないが(独学の俺に師匠はいない)、結局流派が一緒だからね。
親父と映画の話をしたことはない。俺が監督になってからは一緒に仕事もしたし、少し話すこともあったけど、大抵何の参考にもならない馬鹿話ばかりだった。
誰に向けて書いたかわからないこの随想が、計らずも40年後に駄目な息子にいくつか大切なことを教えてくれたのである。やはり親父も憤死寸前まで悩んだ末、「形式は問題ではない」というところに行き着いたのだ。
俺は俺なりに更に考え、写真文庫ではなく、なまず映画を立ち上げることにした。『魔王』は答えではない。映画は結論を示すものでなく結論への"イメージの"道筋をぼんやりと提示し、その可能性を探るものだと思う。親子揃って愚かであることは『魔王』をご覧いただけばわかるだろう。
それにしても――写真文庫って一体何なんだろう?