天願大介のなまずブログ

2014年5月7日

アイディアについて

どんなものにも始まりがある。地球にも宇宙にも。もちろん映画にも。
映画の一番最初は何から始まるのだろう。 映画史的なことを言っているのではない。映画を作るときのスタートは何かという話だ。映画が完成する前には編集仕上げが必要で、その前には撮影でその前に脚本があって……と遡っていくと、映画の一番最初は、誰かが何かを思いつくところだと思う。
ある日誰かが「これは映画になる」と思いつくのである。それが映画のスタートになる。これはハリウッドの超大作でも学生映画でも、すべて同じだ。映画(に限らずどんなものでもだが)は常に、誰かの個人的な着想から出発するのである。
もちろんそのアイディアが本当に映画になるかどうかはわからない。思いついた小さなアイディアを脚本にするのに、才能や技術が必要になる。脚本が書けたとしても、そこから金を集め人を集めて撮影するまでに紆余曲折があるし、更に完成させて上映するのはそれはもう大変なことだ。でも、まず最初にアイディアがなければ何も始まらない。それは、はっきりしている。
『世界で一番美しい夜』という映画のときは、たまたま小さな新聞記事を見たのがきっかけだった。東北電力の管内で千戸の停電があり、調べてみると変圧器の中から黒焦げになった小さな蛇が見つかったという記事だ。
それを読んだとき俺は衝撃を受けた。これは「蛇の自爆テロ」なのだと思った。一匹の蛇が決意を秘めて暗い変電所の変圧器に這い上っていくイメージ。蛇は何故、何のために命を賭けたのか。どんな気持ちで変圧器を目指していたのか。一匹の蛇の死から妄想と連想が爆発的に広がって脚本になり、それからいろんなことがあった結果、あの映画が生まれたわけだ(東北の震災と原発事故の数年前の作品です)。
『AIKI』は車椅子のデンマーク人が古武術の黒帯になったという記事を読んだとき。『妹と油揚』は川崎駅近くの日本家屋を見たときにストーリーをパッと思いついた。『魔王』では「方角」のことを調べていて「方違え」という方法に出会ったとき、「方角を気にしすぎてまっすぐ歩けなくなった男」を思いついた。

映画 『 妹と油揚 』 より

人、本、風景、音楽、言葉、夢、あらゆるものがヒントになる。映画を見ていて思いつくこともあるけど、俺の場合、それが映画になったことはない。映画のアイディアは映画の外にあるのだと思う。
うまくいくときは、それまで考えていたけどなかなか形にならなかったことが、たった一つのアイディアで一気に結晶化し、凄いスピードで物語が展開していく、そんな感じ。その瞬間はエクスタシーで脳が震え、自分は天才だと叫びたくなる(叫んだことはない)。
つまりアイディアとは火花=起爆剤のようなもので、それまで考えていたいろんなことが燃料なのである。火花が散って燃料が次々に燃え、圧力がかかって爆発する。燃料自体が少なかったり圧力が弱ければ大爆発は期待できない。燃料がなかったら? 火花が散っても何も燃えないから、アイディアがアイディアとして機能しないことになる。
ということは、アイディアがスタートであることは間違いないとしても、それ以前に燃やす材料がどれだけあるかが重要なのだな。そして内部の燃料と連動できるアイディアこそ、よいアイディアということになるわけだ。なるほど。作家によって同じアイディアでも別な物語になる理由もそこにあるのだろう。
以前、アイディアを転がしているうち自然に物語はできると書いた(ストーリーについて参照)。それは、アイディアを弄っているうちに形が変わり、そこにいろんな別なものがくっついて化学変化していき、それを物語のパターンに嵌めていけば、何となくできてしまうということ。できるんだけど、その作業を意識的にしなければならないときは、あまりいい物語にならない。あのときは「強いアイディアが必要だ」と書いてしまったが、どうやら問題は「強さ」ではなく、「連動性」にありそうだ。そのことはまた考えてみよう。

別な例えで言うと、沼(溜め込んだ燃料)には、気味の悪いものや、わけのわからないものが潜んでいる。そっと釣り針を下ろす。餌(アイディア)の刺激によって、水面下の何かは形を変えて釣り上げられる。餌をしっかり食わせてから合わせるのがコツ。

ともかく――俺は子供の頃から日々いろんなことを考えたり調べたりして研究し、燃料を備蓄している。これのいいところは、研究すべきことが多すぎて退屈する暇がないこと。よくないところは周囲から頭がおかしいと思われることだ。
そろそろなまず映画の次の脚本の準備を始めないといけない。俺の場合、書き始めるときも書くことはまだ決まっていないことが多い。書く前は何となく勘を働かせつつ、じりじりとその瞬間に向かっていくのである。
というわけで、迷いながら俺は今、免疫の本を読んでいる。