天願大介のなまずブログ

2014年2月21日

独立プロの志と「わかりやすい」ということ

誰も撮ってくれと言ってないのに勝手に撮る映画はもちろん映画の本流にはなり得ない。請け負った仕事をこなすのがプロだという考え方に立てば、そもそも俺はプロなのか疑わしい。撮影所が映画を独占し工場のように作品を作り続け、観客が何も疑わず映画館に殺到した時代ならともかく、今や「映画」を巡るすべてが曖昧になり境界線は溶けていき、「プロの映画監督」という定義もはっきりしなくなった。
しかし、そもそも黒澤明や今村昌平や大島渚は、そういう意味でプロだったのだろうか。歴史を振り返れば映画会社の下請けをやりたくて独立プロを作った監督はいない。下請け職人に甘んじるのが厭だからリスクを背負い撮影所を飛び出したのだ。
新藤兼人、若松孝二、大島渚が続けて死んで独立プロの時代もついに終焉を迎えた。作品と商品、プロと素人の境界線はどこなのかという手垢のついた問題は、昨今ますます答えが出しにくくなっている。

雑魚寝宿舎の二階風景。ここにスタッフ俳優六人寝る。布団は借りたり持ち込んだり。今村プロ名物の完全合宿が久々に復活した。

他のジャンルより金がかかる映画は「わかりやすい」ことをいつも求められてきた。映画の技術のほとんどは、何かを「説明的でなく説明する」ためのもので、その技術を上手に使えるのが「プロ」の条件だったりする。それに異論はない。
しかし、それにしても最近、「わかりやすい」ことばかり要求されるようになった。
感動というのは本来感情が動くことで泣くことだけではない(落涙は排尿と同じ生理的行為)。まして、わかりやすいから感動するなんてことがあるものか。頭の中は疑問符だらけでも感動してしまうことがある。それが人間なのに、よりわかりやすく、より甘口に、より簡単に生理的反射を引き出すように作るとプロデューサーに褒められる(ちなみに彼らがよく口にするのは「家族のエピソードが足りない」「恋愛(夫婦)の話を増やせ」だ)。
本当にそれでいいのだろうか。もし観客が歯ごたえのない甘いものばかり欲しがっているとしても、そんな映画ばかりではみんな糖尿病や虫歯になってしまうじゃないか。
俺の若い頃は小説でも映画でも、わからないのはわからない奴が悪いのであって、わかるためには読者観客が努力しなければいけないのだと誰もが思っていた。
だから背伸びして、わからないものを見たり読んだりして、ああ、俺は駄目だと落ち込み、わからなかったものがわかるようになってくると、自分がちょっと成長したような気がした。その先には、これはわからなくてもいいという作品群があって、わからないのに何故か感動出来たとき、いっぱしの客になったと実感したものだ。

機材は小さいし少ないけど、自主映画でも結局やることは一緒だ。プロに混じって日本映画大学の学生諸君も数人参加。

どのジャンルにせよ、楽しむためには努力が絶対必要なのだ。快楽は訓練するほど深さを増していく。例えば子供は柔らかくて甘いものが好きだけど、大人になれば顎が発達して堅いものを噛めるようになり、苦味や辛味や臭いものの価値がわかり歯ごたえや微妙な味わいを楽しめるようになる。
話を戻すと、独立プロの映画が目指したのは撮影所が怖くて作れない歯ごたえのある作品で、難解だったり苦かったり目を背けたくなる内容だったりした。誰も「わかりやすさ」を否定していたわけでないけど、金もないし必死だからどうしてもエスカレートしていって、次の世代はその反動で「娯楽」の可能性を模索し始める。しかし、その「娯楽」だってまだ充分噛みごたえがあった。
ところがいつの間にか、多様な快楽(味)を内包していた筈の「娯楽」は、「感動=泣ける」とか「わかりやすさ」とか、つまり単純で習慣性が強く成長を妨げる味にすり替えられてしまったのである。その結果、糖尿病と虫歯の客を増やそうと誰もが必死になっている。これは日本人を子供のままにしておこうとする某国の陰謀なのだろうか。子供の国は確実に滅びるからね。
『ブリキの太鼓』のオスカルは自らの意志で肉体の成長を止めたが、大人の苦さを拒絶したわけではない。
我々の「第二の選択」は、観客は努力を惜しまず快楽を求める大人であると信じる。顎は噛むためにある。ちょっと辛かったり臭かったりするかもしれないけど、それが大人味というものだ。